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少し変わった中国

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月15日(水)07時50分29秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   いつだったか、久し振りで中国を旅行したときのこと。空港もどこも、行列は相変わらずだが、皆さんキチンと並んでいるのに驚いた。カウンターで若い娘さんに、「お先にどうぞ」と譲られたのには、もっと驚いた。以前は、郵便局でも駅でもバスでも割り込みは激しかった。語言学院の教材にも、割り込みを描写した「相声」(中国の漫才)があったくらいだ。それでも公共機関では、例えば郵便局では、もたもたしていたら、局員が「後ろの方どうぞ」と手を差し伸べてくれた。黒竜江省の田舎を列車で旅をしていたとき、普通車で先頭に並んでいたのに、弾き飛ばされて乗れそうになく諦めていたら、駅員が連結している、無人の回送車に乗せてくれた。
 座席指定も早い物勝ち。二時間の乗車区間で、延々と二時間座席争いをしているのを見たことがある。
 ローカル線だが、飛行機のファーストクラスで、知らん人間が座っているのに驚いたことがある。
最近は行列のお行儀がよくなっているのは、北京オリンピックの影響だろうか?そんなに昔でない気もする。
  公共マナーは、特に年寄りに対しては、少し以上に良くなっている。
  痰吐きも見ないし、タバコも少しずつだが良くなっている。タクシーの運転手がまず私に一本すすめてくれる。「吸わない」と答えると、「吸ってよいか?」と尋ねる。

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変わった中国

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月14日(火)08時26分2秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   昔、通りでよく見かけたのは、中国人同士の喧嘩だった。特に女性同士のバトルはすさまじかった。性器の名前がもろに出てくる激しい罵り合いと髪を掴み合うレスリング。回りの人達はそれほど珍しくもないのか、取り合わなかった。1990年代は、まだまれに見たと思うのだが、最近は全然見ない。
 街が綺麗になった。あの鼻をひんむぐ臭気は裏通りにもない。1945年建国式典を前にして、中国共産党を悩ませたのは、会場の確保だったと聞く。広い中国、何処にでも有りそうだが、天安門前は、瓦礫と糞尿の山だった。それは当時満州で、町外れは勿論市中でも珍しく無い光景だった。撫順の駅裏にあった水飴工場の水飴貯蔵池には、猫の死骸が浮いていた。
 ニーハオトイレは、トイレそのものが無かった。
 人海戦術で会場整備を間に合わせたのは、建国秘話裏話として、2017年中国のテレビで見た。
 ニーハオトイレの問題は、2008年の北京オリンピックまで持ち越される。今でも私は、中国の旅では、トイレは行けるときに行けるように心がけている。

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変わる中国

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月13日(月)14時40分0秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   1972年、国交回復を記念して、父達昔の満州役人が、中国政府の招待を受けて訪中した。「変わった中国をご自身の目でお確かめ下さい」というツアー。歓迎歓迎の中、赤絨毯の上を歩いて、父は何を感じたか。地政局の人間として、文字通り命がけで作った土地台帳が新中国の役に立っているのを知って喜んでいた。
 私が退職後始めてした望郷中国の旅が1992年。1993年北京語言学院に短期留学したのだが、改革開放が始まったその一年で大きく変わっていたのは、天安門広場がお花畑になっていたことだ。若い女性は人民服を脱いで彩りのある服を着ていた。学院で習った教科書によると、「市民はみなこのような服を着たくて、タンスに入れて誰かが着るのをじっと待って居たのです」とあった。
 私は「中国は変わる」と何度も書いてきた。
 しかし独裁体制の改革は、「自由の戦士が独裁の旗を引きずり下ろす」という劇的な革命ではないはずだ。ベルリンの壁のような象徴的なことはあるかもしれないが、粛正の血は流れないだろう。4千年の歴史と近世の苦い経験で、中国人は賢こくなっている。市民は望む物を心にしまっているが、ある日一斉に花を咲かせているだろう。

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面従腹背

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月12日(日)09時19分4秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   「漢奸」とは満州統治時代の裏切り中国人のこと。当時の国務総理鄭孝胥は長男が漢奸として処刑された。当人は終戦前に他界しているので、それはなかったが、生きていたら何らかの不幸な処遇を受けていただろう。
 下記は彼が作った満州国国歌の一節である。
 「頂天立地無苦無憂 造成我國家」素直に読めば(苦労も憂いも無い我が国家が造られた)だが、実はこの歌詞には、関東軍も一目置く硬骨漢鄭孝胥の恨みが込められていた。「造成」は日本語では宅地造成など良い意味で使われるが、中国語では、望まない事が起こったときに使われる動詞である。正しくは「建立我国家」だ。もっと凄いなと思うのは、この恨み節の真意を、当時の中国人官僚は皆知って居たと思う。それを誰一人日本人に教えていない。旧満州国で参事官をしていた父の思い出によると、当時の中国人は日本人が押しつける無理難題にも、「今は満州国ですから」と、唯々諾々と従ったという。
 独裁国家中国の全人代のテレビ放送を見て思う。壇上で槌を振る独裁者に誰一人異を唱えない。一般に人の考えは、誤差曲線上を度数分布すると思うのだが、100%満場一致である。
 賢明で逞しく優秀な中国共産党員の「面従腹背」と見るのは、私の偏見だろうか。

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同じ穴の狢

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月11日(土)11時10分3秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   黒川元検事長が不起訴になっていた。
 敢えて言わせて貰う。たかが一万円位の賭けマージャンで、一国の司法界のトップの首が飛ぶほどのことか。もともとこの人の身辺に漂っていたのは、政権の番犬としての悪臭だった。政権の恣意による定年延長。政権は、「もりかけさくら」という臭い物に強引に蓋をした。更に漂う悪臭から身を守る為に優秀な番犬を必要とする人達が居た。
 ところが、コロナウイルスという神風が吹いて悪臭は吹き飛んだ。となると優秀な番犬は却って危険な存在。狡兎死して良狗煮られた。
 ここまでは、猿芝居でもすんなり分かるストーリー。
 少し意外だったのは、狗の周りに居た貉。「正論」も「天声人語」も貉の戯言だったのか。無冠の帝王は死んだのか。社会の木鐸は、死語になったのか。一万円の賭けマージャンより罪は重い。
 嗚呼!こんな人達が「自由な言論」の旗手なのだ。独裁権力を貶す前に、権力に媚びるな。

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Re: 新年快楽!!

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月11日(土)02時26分38秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.772[元記事へ]

> ローラさん、皆さん、明けましておめでとうございます。
> 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
> 令和二年が穏やかな、良い年になりますように。

********
ノロさん お元気でしたか。
貴方からは、色々ご高見を頂いたまま私の返した愚見にはお返事がなく片道通行になっていることが幾つかあります。
今また、一人相撲で寂しい思いをしています。
本談話室は、もうお見限りかと思えばお元気に書き込まれているご様子。

よろしければお返事かたがたご指導頂けますか?
1 嫩江の読み方の件
2 日僑捕虜の件
3 撫順忠霊塔の件
4 長崎熊作さんの件

1 嫩江は確かにピンインはnenjiangですが、日本語読みは、漢音でドン 呉音でノンです。
  「これをドンと読むようでは満州子ではない」というきついご叱責は納得できません。
2 「日本人は捕虜でなかった」というご説。
  主観的なご意見としては理解できます。しかし私が行った学校は日僑浮子弟小中学校です。
  外地に遺棄された日本人を、捕虜だから中国は安全帰国させてくれた。
3 撫順の忠霊塔は、私が自分で撮影した物です。私は撫順育ちです。違うといわれても戸惑うだけです。
4 長崎さんの件。貴兄は「絶対に子供を中国人に預けるはずがない」と断言されますが、私はこの状況では鄭鑫さんの言われることを信じます。

  「知過必改」私も間違えます。間違いと知ったら改めます。しかしこの件に関しては私は正しいと思っています。 

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Re: ご冥福を

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月11日(土)00時36分44秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
  > この旅行の出発前、住所は「スーチコドー」とだけ憶えているのだけど・・と書いておられたノーラさんに、新京地図上で崇智胡同を見つけて差し上げたのが、ノーラさんとの最初のご縁でした。あれからもう15年になるのですね。

 ●
>
 昭和14年から15年。私も崇智路代用官舎41号に住んでいました。
 弟がここで生まれたので、戸籍に正確な住所が残っていました。
 白菊小学校(現第五中学)の近くです。
 同級生に竹下泰子ちゃんという女の子が居た。一つ年上に牛尾伝君という男の子が居た。牛尾君は写真があります。
 ノーラさんがお元気なとき、お話したかった。
 

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最後の語り部の独り相撲

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月10日(金)16時03分31秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
    満州の語り部も、私達の世代が最後になった。私達より前の世代は多くの方が亡くなった。若い世代は記憶が薄い。
 かつて熱く語った上海関連の掲示板は、もうない。2チャンネルは誰も相手にしてくれない。私の書くことは「面白くない」そうで出入り禁止である。何処へ行っても嫌われるのは、人望の無さと諦めるが、中国自身が若い人達の関心の外にある。独裁国家=ドクロマークの暗黒国家なのである。
 孫娘に中国行きを誘ったら、喜んで「行く、行く」という。娘(孫娘の母親)に聞くと、真意はどうも「おじいちゃん孝行」らしい。
 中国の若者は、「小日本」の若者が中国をどう見ているか結構関心がある。しかし日本の若者は「小日本」と言われても歯牙にもかけない。靖国と尖閣を通して知る中国は、冷酷、無慈悲、非条理、尊大な国でしかない。無関心なのである。
 日本の若者の憧れの目は、欧米を見ている。
 私は、満州育ち。父は満州国に王道楽土の夢を見た昔人間。その息子私は「溥儀の申し子」という自意識が強い。最後の語り部も八十五才。平均寿命を大きく越えた。せめて余生は中国の若者と語り合いたい。

  ******
  自分の掲示板はメンテナンスが悪く誰も見てくれません。ここはローラさんのお人柄で、客が多い。コロナで大変ですが、お邪魔させて下さい。

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好事門を出でず

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月10日(金)05時47分33秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用
    アパートの下に、いつも朝食に使う小さな食堂がある。包子と豆腐汁で7元(日本円約110円)。
  すっかり顔なじみになって、黙っていても同じ物を出してくれる。暇なときは、お喋りの相手をしてくれるのだが、ある日ご主人が「さくらさくら」と、ハミングで歌いだした。思わず拍手をしたら、ソーラン節を中国語で歌った。中国のカラオケで「北国の春」は定番である。滝廉太郎の「花」も中国人が中国の歌と勘違いするほど、よく聞く。「里の秋」もオルゴールで聞いたことがある。
  2005年(抗日戦争勝利60年)のとき、私と同年配の男性が歌ってくれたのは、「海逝かば」だった。
  抗日戦争映画は今でも三日にあげずやっているが、内容が大きく変わった。当り前のことのようだが、「日本人」と言うべき所では、はっきり日本人と言っている。以前は全部「小日本」(日本への蔑称)だった。残念ながら今でも「鬼子」は日本兵の代名詞である。
  日中関係はキナ臭い問題もあるが、小さなしかし一番大事な所(庶民同士の友好)では確かな手応えがある。報道は往々にして好事門を出でず。悪事千里を走る。

*******
これも今回の瀋陽滞在のときの経験。

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中国恐るべし

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 9日(木)08時34分0秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   いつも利用する、若夫婦二人でやっている面専門の店がある。三十席ほどのこじんまりした客席と厨房(ちゅうぼう)。動線設計が悪いのか厨房が狭いのか、外に置かれた冷蔵庫と厨房の間をご主人がこまめに動いている。
 髪を無造作に後ろに束ね、少し細めの体に切れ長のまなざしの25才前後のおかみさん。何がそんなに楽しいのか、いつもにこにこ笑っている。それが自然で、スキップを踏むような足取りで店内を飛び回っている。もし「幸福」を絵にすることができるなら、これがそのままその風景ではないだろうか。これが本来の中国人の姿なのだ。
 以前、初めて解放後の中国に行ったとき、本を投げ渡されてカルチャーショックを受けたが、中国はどんどん変わっている。何より人が変わっている。社会体制という入れ物が変わったから人が変わったのか、人が入れ物を変えつつあるのか、それは相互に作用しているのだろう。
 かつて日本が不幸のどん底から這い上がったように、中国がこの有り余る幸せの輸出国になる日も近い。強力なライバルの出現を喜ぶべきか、恐れるべきか。


  ******
  これは、昨年まで瀋陽で暮らしていたときの体験。
 「民以食為天」(民は食を以て天と為す)
 独裁政権が、国民の付託に応えて、その上で統治権を固めていることも知るべきである。

 貧困 今世紀の初めはまだ二千万人の飢餓線上の貧困者が居た。李鵬首相の国連演説。
 温飽 なんとか食べられる水準。2010年の撫順。それでもまだ庶民はゴミ箱を漁っていた。
 小康 目標とする、先進国並の水準。今世紀初頭に実現を目指している。
 富裕 富国強兵策で一部に富裕層が生まれ、貧富の格差が顕在化した。

 計画経済を推し進める中国共産党の官僚は汚職もするが、腕も確かである。大砲もバターも確実に作られている。今世紀初頭やっと一兆ドルを超えたGDPが今や世界第二位。
 その中で生まれる小市民。デモクラシーの基盤を作る彼らが、次の世代にどんな選択をするか?






 

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異聞「一衣帯水」

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 8日(水)10時08分29秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   「一衣帯水」は、随の煬帝(569-618)が、臣下に対して眼下の小川を指さし、「朕が汝臣民を思う気持ちは、目の前の一条の小川より隔てが無い」と言って使った言葉に始まる。
 1972年国交回復の時、周恩来が「日中は一衣帯水の間柄である。15年の不幸な歴史もあったが、友好の歴史は更に長い」という名文句で日本人の心を掴んだ。同時にまだ抗日気分の抜けやらぬ国内世論もこの一言で鎮めた。それは日中両国の関係認識を一言で言い表していたからである。
 中国人は、自国民の長所を「寛大」だと思っている。これは日本人の百人が百人意外と思うだろう。日本人の中国人に対する潜在意識は、「執念深い」「強欲」である。
 罪に服して刑死した人、祖国の為に殉死した靖国に対する英霊を、いつまでも赦さない人達を、日本人は「中国人は屍に鞭打つ人達」と思い込んでいる。国際法上もサンフランシスコ条約上も日本領がはっきりしている東海の小島に地下資源が見つかった途端に、明時代のことを持ち出して、侵略の根拠にする人達を強欲だと思っている。「一衣帯水」は単に地理的な遠近を表す言葉でないことを、私も思い知る。
 これは反中教育ではない。中国自身が行っている反中宣伝が「一衣帯水」意識であると言いたい。それは「寛大」でない。「尊大」だ。

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尋ね人

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 7日(火)10時00分36秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   中国で暮らしていると、残留邦人または残留孤児の方から日本の消息を尋ねられることがある。これはその中の一つ。
 元撫順在住、現在吉林にお住まいの鄭鑫さん。残留孤児二世である。
 厳密に言うと以下のような理由で残留孤児ではない。
 祖父は、氏名長崎熊作。元撫順市東四条田中文具店に勤務。昭和19年?応召。応召の時に鄭金さんの祖母が長崎熊作との二人の子供の内、娘(鄭金さんの実母)を鄭金さんの養祖母に預けて長男だけ連れて日本に一時帰国。その後終戦で消息不明。
 鄭鑫さんは、自分のルーツが知りたいと長崎熊作さんのことを探すのだが、分からない。
 1999年。私は当時の厚生省引揚援護局に調べて貰うようお願いした。
 残念ながら、日本政府が言う残留孤児、または残留邦人は、1945年8月15日以後中国に居た人のことで、それ以前の離散家族は対象でないとのこと。
 私は帰国した長男の長崎君には、東公園小学校で同級生で印象がある。運動神経の悪い子で、行進のとき右手と右足が一緒に出て、担任の宮脇先生(鹿児島出身の女性)にビンタをとられてべそをかいていた。目の大きな子だった。
 最近思うのだが、軍歴から調べたら分からないか。長崎という姓は鹿児島に多い。今度機会があったら鹿児島の県庁に行って調べてみたい。
 この時期、庶民にはそれぞれ悲しいファミリーストーリがある。

********
鄭鑫さんからのメール。(日本語訳 けんさん)

1
山崎先生:
 拝啓、私は吉林農業大学で教授をしている鄭金と申します。わずかの手掛かりを基に、ずっと母親の親類の消息を尋ねています。今日インターネットで、貴方が1935年以後撫順で生活していたのを知りました。私の母親と同世代の方であり、境遇もよく似ています。本日お便り致しましたのは、母親の親族探しにお力添えを頂きたいと願ってであります。

 私の母親は残留孤児です。中国名は曲美雲と言います。1939年12月生まれ、現在吉林省梅河口市に住んでいます。彼女は遼寧省撫順で父母と別れました。私の祖母(母親の養母)の記憶から辿ると、父の姓は長崎、当時撫順市で文房具店を開いていました。小中学校の教科書販売と、補修を主にしていました。母親の養母が語るところによりますと、父親が応召し、1945年8月母の生母は一人の子供を連れて帰国することになり、そのときまだ幼い彼女は、中国の長崎さんの友人曲栄臣、曲李さん夫妻に預けられました。長崎さんには弟が居て、東京で文具と印刷方面の店を経営しています。それで私達は、母の親戚がまだ健在だと信じています。

 私の母がこのように長い間身内の捜査をしなかったのは、彼女の養母がまだ健在だからです。養母は既に99才の高齢で、母が養っています。そして養母にとって母だけが身内の人間です。母はどうしても養母の気持ちを傷つけることは出来ませんでした。その母も既に60才を過ぎ、国の年金で生活に不自由はありません。ひたすら孝養を尽くしています。
 彼女の最大の望みは、自分の身元が分かることです。身内の人間が見つかることです。祖国に帰って見たいもの、彼女の言葉によりますと「只思うのは、父の魂が祭られている東京はどんな所だろう、富士山と桜も見てみたい」。彼女は信じています。もし父が健在なら、必ず私を探してくれるはずだと。父母に会いたい、親類親戚の人に会いたい、これは人の情です。その強い気持ちだけです。

この度お便りしましたのは、先生に調査をお願いしたくてであります。お尋ねいたします。当時のお友達の中に彼らの親戚はなかったでしょうか。中国に女の子を一人残した人をご存知ないでしょうか。私達は心から先生のお返事を待ち望んでいます。どのような結果になろうとも、まずは先生のお返事をお待ちしています。
ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願い申し上げます。
母の小さい時の写真を添えて送ります。

2
 山崎先生
 お返事有難うございました。熱心にご協力を賜り感激しています。また貴方の中国語が非常にお上手なのに敬服すると同時に安心致しました。以前日本人と交流したのですが、私は日本語を見てなんとか分かりますが、日本語が書けません。それでやむを得ず中国語で便りをするのですが、なかなか上手くいきません。
 幸い貴方とお知り合いになれ、貴方は又母と同じ時代に同じ場所で暮らした人です。よく似た境遇の中で、母の思いに理解を寄せ母の肉親探しに協力頂けると信じています。
 お返事が遅れましたのは、その後瀋陽市と撫順市に行って当事の古い資料を調べていたからです。そして母に関する消息が少し分かったのです。私はこの度遼寧省档案館で「撫順商工名録」(昭和12年出版)という本を見つけ、その中に母の父親の名があったのです。
 長崎熊作、1937年撫順経営田中文具店、住所撫順市東四条通。
 このことは、私の祖母(母の養母)が日頃語っていた淡い記憶と符合します。

 私は更にそこで、手掛かりを見つけました。田中文具店の前身は田中文具部です。(満州国商工名録による)。昭和八年に同じ住所で田中広吉と言う撫順市の大商人が、ここで田中文具店を開いています。田中広吉さんは、長崎熊作さんの行く末のことを必ず知っているはずです。

 山崎先生、貴方は母と同時代を同じ都市で過ごした方です。年齢もさほど変わりません。貴方はまだ撫順の町並みの記憶がありますか?東四条通の向かいは田中文具店でしたか?長崎という姓は、日本ではあまり多くないと聞いています。貴方の同級生に長崎熊作さんのご子息はいませんでしたか?ご無理なお願いは分かっています。しかしやはり私達は貴方におすがりして、田中広吉と長崎熊作の消息を尋ねて欲しいのです。

 貴方がお便りで言われました、日本の厚生省には既に何回も手紙を出しています。既に二年が過ぎました。しかし私の母は、1945年8月15日以前に肉親と別れています。だから日本政府のいう、残留孤児には当てはまらず、調査の対象にならないと、断られました。母は非常に落胆しています。今回の新しい調査により分かったことを加えて、貴方からお口添えを頂き満足な回答が得られることを望んでいます。

 私はまだこれからも、母に関する手掛かりを少しでも探し求めます。中国で調べるのは難しいのですが、少しずつでもやってみます。出来ることなら日本で、長崎熊作に関する詳細な資料、出生地、生年月日、中国に居た時期、軍歴、撫順を離れた時期、原因・・・。まだご健在かどうか。彼の妻子や子供はどうなったのか。彼らは決して中国に置き去りにした女の子のことは忘れていないと思います。彼らは中国に探しに来てくれたのだろうか。私の母親は撫順で何回も引越しをしています。その上1969年に撫順を離れ、吉林省の梅河口市に来ました。沢山の知りたいことがあります。時が流れました。やがて70年の歳月になります。もし答えが得られるなら、天国の父長崎熊作さんが導いてくれるでしょう。どうぞお力を貸して下さい。一日も早く、その日が来るのを待ち望んでいます。
 母に代わり、貴方のご協力に感謝します。中国に来られたときは、是非我が家にもお立ち寄り下さい。



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玉の輿

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 6日(月)13時58分36秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   終戦後撫順は、比較的治安が安定していた。日本人が多かったこと。(約10万人)。重要な工業地帯だったこと。満鉄が主体になった日本人居留民会が機能していたこと。などがその主な原因である。8月9日ソ連の侵攻以後、辺境の地からの避難民が多数流れ込み、その人達が「避難所」と呼ばれた学校に収容されたのだが、その正確な人数は知らない。しかし撫順社会科学院には、飢えと寒さの中で亡くなり防空壕に遺棄された遺体の数は正確に記録されている。その数2000体以上。
 その人達の子供が、路上でタバコや餅を売って口しのぎをしていた。
 老舎の小説の一文に、髪に麦藁を挿した女の子の描写がある。麦藁は「私を買って下さい」というシグナル。この子達は麦藁を挿してはいなかったが、次々に路上から姿を消した。飢えと寒さを知らない玉の輿に乗ったのである。その人達が「残留孤児」になった。
 その正確な数を私は知らない。1999年現在、撫順だけで帰国を希望しながら叶わない人が99人居た。2016年8月31日現在、中国から帰国を果たした残留邦人が総計20911人とあった。今や残留孤児も二世、三世、四世の時代。その実数は何人だろう。

******
 帰国した残留孤児の一世、二世の人達も必ずしも幸せではなかった。中国に残した養父母のことが忘れられず帰国した「広島の夕日」の主人公のW,Yさんに1998年通遼でお会いした。この方は恵まれていた。
 別の少し悲しい話。
 残留孤児の反対。S,H君は両親とも中国人だが、日本で生まれ育った。帰国して小学校に入学した。昨年中国で会ったのだが、何故か日本語を話さなかった。忘れたそうだ。実は苛められていた。彼はこの春日本に転校した。また逆に苛められていないか心配する。でも彼はまだ恵まれている。優しく繊細で頭の良い彼は苛められやすい。苛めを糧にして、大きく育つことを心から願う。



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和気致祥

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 5日(日)19時50分23秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用
   久し振りに日本に帰って、まず思うのは、乗り物の中が静なことである。
 車内放送で、携帯電話の使用注意が流れる。
 携帯電話は話す為の物だったと思うのだが、電話一つにもこれだけ気遣いをして作られた静寂の中で、却って気疲れがするのは、私の神経が中国化したからだろうか?
 中國のバスに乗ってまず感じるのは、中国人の声の大きいこと。
 携帯電話の声が、端から端まで響き渡る。通学の児童が一斉に乗って来ると、まさに蜂の巣をつついた騒ぎ。年寄が何か独り言をぶつぶつ言っている。子供がむずかると、回りの人達が競うようにあやしている。
 久しぶりで聞く子供の泣き声というのは良い物だ。この生命の騒音の中で、却って癒されるのは、私の神経がすっかり日本化したからだろうか?
 中国化した神経と、日本化した神経はときにせめぎ合う。
そんなとき最近良いおまじないを覚えた。
「誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ♪」この歌を口ずさむと、そんなことどうでもよい気になって、不思議に心が和む。まさに「和気致祥」和んだ気持ちが吉祥を招く。

*******
 これは以前ある地方紙のコラム欄に投稿した物である。
 中国で暮らすと日本が恋しくなり、日本に長く居ると中国が懐かしくなる。

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日本の将来

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 4日(土)12時11分15秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
返信・引用 編集済
   今年2020年は、皇紀二千六百八十年。我が神州日本は不滅である。皇国史観で言っているのではない。やや希望的観測ではあるが、真面目に科学的に言っている。
 我が国は、地質学的には複数のプレート上にあって脆弱な地形だが、政治的には極東の果てにあって安定していた。多数の国家が入り組み政情複雑なヨーロッパから見たら、極東の文化果てる地はユートピアだった。中国から見たらシルクロードの東の果ては、不老長寿の蓬莱の国。
 国内的には、実質的に単一民族。それと皇室の存在が大きい。大和朝廷を支えた豪族、歴代幕府、明治政府、近代。全ての政権が朝廷の権威を利用し、統一と安定を図ってきた。
 周辺の海洋は、戦略的防衛に寄与し、更に極東という地理的条件は、近代化に貢献した。
 ヨーロッパから見たら最果ての地だが、近代文明は、黒船に乗ってシルクロードの反対から伝わってきた。一周遅れのビリがトップグループに踊り出たのである。
 敗戦すら有利に作用している。旧弊の打破は、良い意味で急激な近代化で肥満化した日本をスリムにしてくれた。
 将来の日本は、日本民族の長所である「謙虚」を大事に、一番を目指さず、賢く二番手を国是にすべきだろう。出る釘は打たれる。風圧を強く受けるトップは、トップ引きにまかせよう。

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栄枯盛衰

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 4日(土)09時55分47秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
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   歴史に例外がないのは只一つ。それは「盛んなる者必ず滅ぶ」である。遠くはアッシリア、カルタゴ、古代ローマ、近くはポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス等々何処かで下り坂に入り永遠に登りはない。
 今世界最大最強の覇権国家は、いうまでも無くアメリカである。その繁栄に死角は見当たらないようだが、この国は建国以来の宿命として人種差別を抱えている。飽くなき富の追求を許す自由は、天文学的貧富の格差を生んでいる。それに「牙」。産軍共同体が生んだ核兵器の山、これが内部圧力でないはずがない。再生産の方法を知らない大量兵器も、戦争で処理するしか無い。
 デモクラシーの自浄能力で、自国ファーストのナショナリズムの矛盾にどこまで対応できるか。建国以来二百数十年の歴史は長いようで、中国の一王朝の歴史とよい勝負。いつ倒れるかは知らないが、いつ倒れても不思議ではない。アメリカは素晴らしい。憧れの国であったし、今も憧れている。だが私のその憧れの対象は、「力」ではない。「傲慢」でもない。アメリカの素晴らしさ真の「自由」を、アメリカ自身が大事にして欲しい。

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今日はアメリカの独立記念日だったのですね。星条旗よ永遠に!

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少し反省

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 4日(土)07時17分52秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
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   又、書き出すと止まらない。
 日本の将来、人の生死、宇宙の始め、神仏、趣味の囲碁、自転車・・・
 書きたいことは山ほどある。
 でも基本は中国です。好き嫌い、善悪を越えていつも中国のことが頭から離れない。
 何を書いても、中国が中心になる。
 面白くないのはその所為でしょうか?
 ここは「満州談話室」最低でも「中国関連」という意識はありますが無理はしていません。

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21世紀

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 2日(木)15時45分24秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
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   私は21世記に楽観している。地球上から独裁国家は消えているだろう。童話とお伽話に登場するような王国は存在するだろうが、今独裁国家と呼ばれている国は体制を変えているはずだ。崩壊とか抹殺とかいう言い方は相応しくない。何故か。今最大の独裁国中国の国民の大部分である漢民族は,本質的に草食動物だ。古くは匈奴に脅かされ、思い起こすだけでも、元、清は異民族の支配を受けた。宋も支配こそ受けなかったが、金の影響下にあった。
 漢は漢民族国家かもしれないが、「悪漢」「凶漢」「暴漢」など貶語で漢民族が呼ばれたことは、その置かれた立場が、必ずしも優位ではなかったことを想像させる。
 庶民はいつも、そのときどきの権力者に面従腹背で従ってきた。この面従腹背こそ中国人の真骨頂である。面従腹背については稿を改める。
 独裁体制下の中国の内乱「文革」のとき庶民は何に困ったか。「敵我不分」(敵味方の判別がつかない)即ち誰に面従するか誰に腹背するか、龍の頭と尻尾が見えなかったことである。
  中国は自ら変わる。
 次の体制変革は、この経験を生かして、もう少し賢いやり方だろう。それがいつか。私の目には見える。ソ連の崩壊がその時は唐突に見えても、あとで見れば納得だった。それなりに必然性があった。
 しかし賭けるのは止めよう。私が勝って賭け金を貰うには、私に時間がない。次の世代だ。
 難しいのは、「ならず者国家」を食い物にしている、死の商人共の挑発をそれまで躱すことだ。
  さて全ての独裁国家が消えても、必ずしもユートピアが来るわけではない。
 仮面は変わっても中国は当然存在する。
 22世紀への宿題は、この死の商人の扱いだ。彼らは私達と全面的に対立しているわけではない。反面私達の生活に食いこんでいるから難しい。富に対する私達自身の意識改革も要る。21世紀も悩みはつきない。

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デモクラシー

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 2日(木)14時38分17秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
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   撫順で敗戦後昭和21年4月に再開された学校は、撫順神社横の林間学校だった。その後東公園町の数軒の民家を借り上げ、最後は南台町にあった消費組合あとの建物に出来た「日僑浮子弟小中学校」(日本人捕虜子弟小中学校)で学んだ。
 教科書は戦前の物を使ったのだが、「飛行機」と言う単語さえ戦争用語として墨が塗られ、全ページ真っ黒な本だった。かつて天皇陛下万歳を教えた世代の人達に、デモクラシーを語れる人は居なかった。私の学問は新制中学で終わる。以下は私のデモクラシーに関する耳学問である。
 少数意見の扱い。
 意見が孤立したら、誰かが 「 We  support 」と言って最低の複数意見の形にして議事録に残す。
 独裁の排除
 満場一致になりそうだったら、誰かが反対意見を述べて、その決議の問題点を残す。同時に、満場一致マイナス1として、独裁でない、反対意見にも配慮したことを形で残す。
 残念ながら、日本のネット社会は、形はデモクラシーだが実態はかなり疑問。耳になじまない意見には、誰かが攻撃したら、群がって炎上する。「みんなの意見」は常に正義であり、満場一致の苛めっ子社会。個性的な意見は排斥される。「個」の無い所に、プライバシーもデモクラシーも無い。
  中国の大事なことは、最高責任者が提案し自ら議長席で槌を振る。全て大拍手の中、満場一致で決まる。

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プライバシー

 投稿者:けんさんメール  投稿日:2020年 7月 1日(水)09時49分8秒 M014013081032.v4.enabler.ne.jp
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   独裁国家中国にプライバシーは無い。蟻が隠れる隙間は完全に潰されている。
 中国では私の携帯は電話網で盗聴されているし、インターネットは、中国当局の完全な監視下にある。
 身の隠し場所の無い中国では、私は監視されていると思わず、保護観察されていると思うことにしている。
 このプライバシーという概念は、デモクラシーと共に私達年輩の世代には、分かりにくい概念だった。そもそもプライバシーという言葉が、現代用語辞典に登場したのは、少なくとも1962年「宴のあとプライバシー裁判」の後である。残念ながら、この言葉はネット上では、「こそこそ隠れて悪いことをする権利」と曲解されて運用されている。
 そもそもプライバシー概念の根底には、「個の尊重」がある。自分という一番大事な「個」を汚して、卑怯にこそこそ隠れて他人を誹謗中傷する者に、プライバシーを語る資格があるのか。私のインターネット歴20年は「ネットゴキブリ」との戦いでもあった。
 みんなの気に入ることを言わないと、いじめっ子リーダの指に止まって付和雷同しない者は常に排斥された。独裁を憎む者は、まず「個」を尊重すべきである。

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