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Re: カケス

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月25日(金)22時15分23秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.329[元記事へ]

> 最近、当地もキジが沢山棲みついて、独特の鳴き声はよく聞きます。
> 満州では、小さい丘に追い上げて、キジを囲って捕まえようと上級生の指令で
> 雪の中を走った記憶があります。
>
> 捕まえた記憶がないから逃げたんでしょう。
>
     ×××
>
Yoshiさん、皆さん、ごめんなさ~~い。
カササギをカケスと間違えて書いてしまいました。

韓国の国鳥はカササギです。「カ」だけ一緒です。(アセアセ・・・)
私の前の文章は大急ぎで直しておきました。ご了解ください。

お詫びついでに、カササギについての解説を少しだけ書いておきます。

「体はハシボソガラスより小さくて尾が長い。
声;カシャカシャというしゃがれ声で鳴く。
習性;佐賀平野を中心にした北九州地方に留鳥としてすむ。(以下略)」
 「フイールドガイド 日本の野鳥」高野伸二 著

貴兄の住む市では、キジが鳴いてるのですか!
私の住む団地でも時々飛んでるようですが、残念ながら私は見たことありません。

満洲にもキジがいたのですねえ。ひとつ賢くなりました。
ありがとうございます。
 

カケス

 投稿者:Yoshi  投稿日:2018年 5月25日(金)17時01分21秒 d-117-74-46-100.ftth.katch.ne.jp
返信・引用
  韓国の国鳥はカケスですか? 韓国のことは何にも知らないことに気づきます。

カケスは春日八郎の”山のカケスも鳴いている~一本杉の・・・♪”という
演歌で聴いた言葉位です。

最近、当地もキジが沢山棲みついて、独特の鳴き声はよく聞きます。
満州では、小さい丘に追い上げて、キジを囲って捕まえようと上級生の指令で
雪の中を走った記憶があります。

捕まえた記憶がないから逃げたんでしょう。


 

2枚でお終いにします

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月25日(金)07時19分34秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  旅の備忘録、長々と書いてしまい済みませんでした。
この2枚の画像でお終いとさせていただきます。
他にも韓国料理などたくさん写真はありますが、また別の機会にお見せしようと思っています。

画像(上)
韓国の国鳥「カササギ」です。
10日の民族村観光の折には遠くから、大きな樹の上の巣と近くを飛び交う2羽のカササギを見ました。
でも画像のカササギはソウルで夫が撮ったものです。
動物大好きな長男も盛んにアタックしていたそうですが、首尾良く撮れたかどうかは聞いておりません。

確か、バイコフの小説の中にこの「カササギ」が登場して、ペチャクチャ賑やかにお喋りしていた記憶があります。
カササギの姿を見たのは初めてです。
声を聞けなかったのは残念でした。

画像(下)
ソウルタワー。
 

KOREA HOUSE(コリアハウス)

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月23日(水)17時00分13秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  13日は韓国最後の夜を過ごす日です。
私は同じニュータウンに住む紳士から、「ソウルヘ行ったら、是非コリアハウスの演芸を見たら良いよ」と勧められました。
そこで、7人が揃っている最後の夜にこの韓国演芸を皆で見ようと計画し、予約を入れてもらいました。
予約はTomoさんにお願いしました。
今はカード一つで何でも(ホテル、ガイド兼運転手つきレンタカー、KTXの指定席など)買ったり、予約したりできるので、本当に便利な世の中です。

ツアーにぽんと入る方が確かに楽ではありますが、自分たちの希望通りの旅をしたいと思うと、かなり難しくなります。値段も超高くなるし・・・・。
8月から社会人となって世界に羽ばたく孫息子には良い経験になるような旅であって欲しいとも思っていました。
さて、コリアハウスは予想通り見応えのある場所でした。
         ××

画像(上)
演劇が始まる前、コリアハウスの中庭では、本物の韓国式結婚式が行われていました。
私は親戚の者のような振りをしてゆっくり眺めさせてもらいました。(生演奏が珍しかった)
若い孫たちと娘は劇場が始まるまでどこかでお土産買いに余念がないらしく残念ながらその場にはいませんでした。

画像(中)
結婚式が終わる頃、隣の劇場で演劇「韓国の孝行娘物語」が始まりました。
舞台は大変美しく、笑いありペーソスありで、楽しく過ごした1時間でした。

画像(下)
終わってから出演者と共に写真を撮って下さるサービスがありました。
ローラの向かって左横が娘。
 

慶州(キョンジュ)歴史地域観光(11日)

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月22日(火)22時03分30秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  この日、釜山に2泊した嫁さんと孫二人が、運転手と日本語ガイドさんに案内されて、我々二人が一泊した慶州のホテルまで迎えに来て、再び合流しました。(トランクなどの荷物と人が7人まで乗れるレンタカーを利用)

画像(上)
チョム星台。善徳女王の時代に造られた、東洋最古の天文観測施設だといわれる。

画像(中)
美しい提灯の下で女性ガイドさんが、我々本隊5人の記念写真を写してくれました。

画像(下)
面白い金の豚の前でもパチリ。極楽殿。

この日夕方、「新慶州」より新幹線(KTX)に乗りソウルヘ向かいました。
ソウルのホテルに着くと、先に着いた娘と母の日の為の豪華なバラの花かご(娘と息子夫婦が相談して前もってホテルに届けていたらしい)が私を待っていました。(全くビックリポン)
心配しましたが、この大きな花かごは、皆が交代で手にぶらさげてくれ無事日本へ持ち帰ることが出来ました。(*^_^*)
 

Re: 田舎風景

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月21日(月)22時08分23秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.324[元記事へ]

> 日本に見る田舎の風景に近い、入母屋の建築様式に、黒瓦は農家の風景そのものですね。
> 垂木の軒先など違和感がありませんね。
>
> そういえば、牡丹江にも朝鮮族村が鏡泊湖近くにありました。
> このような雰囲気はありませんでした。朝鮮族の方が多く住む集落というだけのことでした。
>
        ★★★★★

yoshiさん、
関連コメントありがとうございます。(カムサ ハムニダ!)

韓国と日本、顔は殆ど同じです。
雑踏の中で若い娘さんを見ると、みんな我が家の孫娘に見えるので驚きました。

それもそのはず。韓国にぞっこん惚れ込んでしまった彼女は、高校生の時からすでに9回くらい訪韓しており、今は大学2年ですが、お化粧も韓国風。着ている洋服もすべてソウルで買ったものだったのです。
(そこまでグランマは知りませんでした)

街中を歩きますと若いカップルが多いのにもビックリしました。
韓国では今、若者の数が一番多いのだそうです。(日本とは大きく違う)

でも、ご指摘の通り、田舎の風景は本当に叙情的です。
日本とは、兄弟とは言わないまでも、イトコ位の関係ではないでしょうか。

どこへ行っても山また山のある風景です。
日本のような高い山はないそうですが、どんな都会でも山が見えました。
それが、札幌の藻岩山くらいの高さなので、余計郷愁を誘われたのかもしれません。
たった1週間の旅でしたが、韓国が急に身近に感じられるようになりました。

足かけ4日間しか滞在しなかった娘は、「今度は旦那とひとり息子を連れて必ず来るよ」と申していました。
なにしろ時差はないし、食べ物が美味しい。
その上、今回泊まったホテルは三つともフロントで日本語が通じました。spa(温泉)もあります。
私は最後の日、ソウルタワー見物には行かずにホテルの温泉に浸かっておりました。(*^_^*)
 

田舎風景

 投稿者:Yoshi  投稿日:2018年 5月20日(日)22時43分16秒 d-117-74-46-100.ftth.katch.ne.jp
返信・引用
  日本に見る田舎の風景に近い、入母屋の建築様式に、黒瓦は農家の風景そのものですね。
垂木の軒先など違和感がありませんね。

そういえば、牡丹江にも朝鮮族村が鏡泊湖近くにありました。
このような雰囲気はありませんでした。朝鮮族の方が多く住む集落というだけのことでした。

 

韓国の歴史的集落群

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月19日(土)22時52分16秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  民族村は広く山坂も多いので、歩いている内に足が少し痛くなりました。
でも、面白いので漠さんについて二人は頑張って歩きました。
暑い日でしたが、木陰は風がひやりと涼しく湿度は高くありません。

画像(上)
広い部屋のある氏族の建物でした。お客をもてなす部屋だったろうか?
記憶は早くもあいまいですが・・・。

画像(中)
上の家の床下にオンドルの焚き口がありました。
満洲の家にもオンドルの家は出てきましたが、このような造りだったのだろうか?

画像(下)
村の入り口近くには歴史の長い良洞(ヤンドン)初等校がありました。勉強するには良い環境です。

同じく入り口近くの事務所風の建物の壁にはたくさんの壁画が描かれていました。
その中から冬景色の中で遊ぶ(武道かな?)子どもたちの姿に惹きつけられて紹介します。
 

良洞(ヤンドン)民族村

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月19日(土)22時02分37秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  私のつたない旅行記を、それでも楽しんで読んで下さっている方が、幾人かおられるようなので続けさせていただきます。

ヤンドン民族マウルは、世界遺産に登録されています。
この村の主役は李氏と孫氏という氏族。

多くの戦乱でも破壊されることなく、厳格な儒教の気風を重んじながら暮らし続けておられます。
素晴らしい風景に思わず魅了されました。
10日と11日はレンタカーと運転手つきガイドを雇って観光し正解でした。

画像説明(上)
氏族の館は風格ある亙屋根の邸です。
一部は開放されてますが、今でも子孫が暮らす空間には入れません。

画像(中)
働く人たち、つまり農民の家は今でも藁(わら)屋根です。

画像(下)
高い所から写しています。民族村の美しい風景を堪能しました。
道の横にはアカシアの白い花が盛りでした。

その日は運転手兼ガイドの漠さん(男性)が「この花食べられますよ」と教えて下さったので、私もひとひら食べてみました。新鮮な味でした。
アカシアの花は故郷札幌でも、満洲大連でもお馴染みの花ですね。
天ぷらにして食すると美味しいと聞いていますが、私は食べた記憶がありません。
皆さんはいかがでしょう。

(つづく)
 

韓国旅行

 投稿者:李相泰  投稿日:2018年 5月19日(土)19時07分9秒 220.85.152.183
返信・引用
  ローラさん、今日は。
韓国旅行を終わり日本にお帰りしましたね。短い旅行期間にわざわざ時間を出して私を会って下さり真に有難うございます。初めて会うのにも昔から会っていた様な気持ちでした。此れはやはり満洲談話室のお陰と思います。ローラさん一家揃っての旅行羨ましいです。

私は大丘の三男の家を経て一昨日ソウルに帰って来ました。ローラさんの旅行談と写真を観るのを楽しんで居ます。
 

5月9日釜山港にて

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月16日(水)22時08分55秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  画像(上)
関釜フエリー「はまゆう」
この場所が戦後日本人が引き揚げた場所なのかどうか私には分かりません。
港の様子も船の形もまったく違うでしょう。
しかし、海と波の様子だけは往事と同じはずだと自分を納得させました。

画像(中)
釜山ー対馬(高速船も走るという)
あっという間に着くことだろう。

画像(下)
隣の埠頭に停泊中の貨物船。

嫁さんや孫たちに、昔敗戦後の日本人たちがお金をつんで雇った船で脱出したり、翌年になってから、苦労の末アメリカや日本が用意してくれた引き揚げ船に乗り込んだことを話してやりました。

今の釜山は韓国第二の大都市に変貌しています。
そんな話(日本人の引き揚げ港であった)は全く知らない韓国人も多いことでしょう。
 

ただいま~~♪

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月15日(火)12時48分46秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用 編集済
  皆さま、
1週間留守にしましたが、昨夜10時45分、無事韓国のIncheon空港より帰宅いたしました。
天候にも恵まれ、若葉の美しい韓国の旅は予想以上に楽しく実り多いものになりました。

韓国の人々は満洲育ちの李さんをはじめ、心優しい人々が多いと感じたのが第一印象です。
李さんは、美しくて優しい孫娘さんを伴って、釜山の我々のホテルに来て下さいました。
李さんは我々に韓国風日本料理(ホテル近くの店で)をご馳走して下さいました。
李さんの孫娘さんは我が家の孫娘とは、韓国語で話し、まもなくロスアンジェルスに1ヶ月留学する孫息子とは英語での会話につきあって下さいました。
彼女自身はフロリダの大学院博士課程にこれから進む大学生です。

私がリュックを背負って地下鉄に乗りますと、きまって誰かがさっと席を替わってくれます。
若い女性の場合もあれば、中年のサラリーマンの場合も同じです。
私はとっさに「thank you so much」と言い座りますと、「you are welcome」とおっしゃいます。間違いなく韓国語を話す韓国人なのですが、それほどに英会話教育が当たり前になっているのですね。
ある方は私に向かい、あの連れの女性は誰か?と英語で尋ねました。私が自分の娘だと答えます。娘は45歳くらいなのですが、少し白髪が交じっています。
彼は驚いて「貴女は何歳か?」と聞きます。最初は笑ってごまかしていましたが、「私はもうじき76歳だ」と答えました。
「おお、そんな風には見えません。貴女はお若い!」
私は勿論それが国際交流のお世辞だと分かっておりましたが、「ありがとう」と笑顔で申しました。

電車を降りてから、娘に「まったくお母さんはずるいよ。良いとこ取りばかりして楽しんでさ。地図見ながら必死になって道案内してるのは私なのに・・・」と叱られました。
それは珍しく二人だけで外出したソウルの出来事でした。(*^_^*)

まだ写真の整理が完全には出来ていません。
また、書きます。
取り急ぎのアイサツ・・・・。

       ★★★★★

追加の画像
李さん家族との対面記念写真(ホテルのロビーにて)
向かって左より、我が家の孫息子・李さんの孫娘・李さん。机はさんで、ローラ・Tomoさん・我が家の嫁さん・我が家の孫娘
(画像は見にくいようですが、クリックすると多少大きくなります)
 

朝鮮経由の引き揚げ

 投稿者:Teddyメール  投稿日:2018年 5月12日(土)09時40分34秒 235.52.236.133.dy.bbexcite.jp
返信・引用 編集済
  私達一家は終戦翌年の1946年秋、安東(現丹東)から朝鮮半島経由で引き揚げました。
終戦時、旧満州在留邦人約160万人の本土への引き揚げはコロ島経由が基本、最短ルートの朝鮮半島経由は極く僅かであったと思われる。
終戦翌日の1945年8月16日にアメリカとソ連が38度線を境界とする分割占領で合意し、ソ連は原則日本人の通過を認めなかったからである。従って、朝鮮半島経由で引き揚げを強行された方々は大変なご苦労をされた。その状況は藤原てい著(流れる星は生きている)、井上卓弥著(満州難民)などに詳しく記されている。私達安東組はそれとはかなり状況を異にしていたようである。朝鮮経由で引き揚げた安東組は昭和21年8月出発、9月出発、10月出発各約800名、合計約2500名。私達一家は9月出発だったが、安東在留日本人会が当時安東を支配していた中共八路軍、北朝鮮を占領していたソ連軍、南朝鮮を占領していた米軍、釜山への引き揚げ船手配の日本政府に話を通して呉れていたようで、
平壌の海岸で米軍上陸用舟艇が待っていて呉れて、38度線は洋上通過、仁川上陸後、陸路釜山に向い、引き揚げ船間宮丸に乗船することが出来ました。終戦直後の安東には10万人近くの日本人がいたようですが、この内、朝鮮経由で引き揚げたのは僅か2500人です。かねてよりこのあたりの経緯について調べてみたいて思っているのですが、関係された方々の殆どが既に幽冥を異にして出来ていません。
 

一路平安

 投稿者:Yoshi  投稿日:2018年 5月 8日(火)20時31分10秒 d-117-74-46-100.ftth.katch.ne.jp
返信・引用
  行ってらっしゃい。

楽しい旅のお話を期待しています。
 

韓国旅行7日間

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月 7日(月)22時08分26秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用
  この旅の言い出しっぺはローラでした。

満洲から引き揚げた人々の中に、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を初めとして多くの朝鮮経由での引き揚げがあったことを忘れることがありません。
彼らの殆どがソウルを経て釜山港からの引き揚げでした。

韓国では5月に家族の日があるそうですが、偶然にも今回の旅は我が家も家族と一緒。
自分たちで計画を立てて行くことになりました。

本隊は私たち夫婦に息子の嫁さん、孫息子(22歳)、孫娘(19歳)の5人。後から娘が3日遅れのソウルで合流、超忙しい息子は4日遅れで合流。
でも、最後の日(14日)は全員同じ大韓航空で成田まで帰ります。

満洲仲間の李さんとは5月9日の正午にホテルのロビーで逢うことに決まっています。
それから李さんが我々5人を連れて街を案内して下さり昼食。
彼はもしかすると孫娘さんを連れていらっしゃるかもしれません。

彼の家はソウルにありますが、その頃李さんご夫妻は釜山在住のご次男の家に滞在中だったのです。
ご次男の娘さん二人は現在アメリカの大学に留学中とのことでした。
色々の会話が楽しめそうです。(*^_^*)

簡単な旅行日程。

5月8日 昼成田発、釜山泊まり
  9日 釜山泊まり

  10日 慶州(キョンジュ)泊まり
  11日 ソウル泊まり 娘合流
  12日 ソウル泊まり 長男合流
  13日 ソウル泊まり
  14日 午後8時帰国(成田)

留守中をどうぞヨロシクお願いいたします。
 

Re: 長靴がない時代

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 5月 1日(火)10時28分29秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用
  > No.314[元記事へ]

> 長靴の配給があるのは御地の事情でしょうね。
> 私の方は滅多に雪は降らない地域ですが、雨の時には高下駄でした。
> 冬の雨の日に、鼻緒が切れて、あの時のことは生涯忘れません。
>
> 遺族会の配給で米軍の捕虜に支給されていた合羽がありました。
> 上着ですが小学生の私には丁度良いサイズで、傘を差さずに通学、
> みんなに羨ましがられた記憶があります。
>
> トラック用古チューブの長靴は、再利用品としての最高傑作だと思います。
>
      ★★★

Yoshiさん、みやはらさん、

戦後物の無い時代の長靴談義で盛り上がっていますね。

私は小学1年の3学期から札幌へ引っ越しし、大きな小学校へ転校しました。
冬はどうしても長靴が必要でした。当時雪は大変多かったから。

多分姉のお下がりだったのでしょう、私の履いている長靴はよく穴が開きました。
これで、○○子ちゃんが履いてるような可愛い色の長靴が買ってもらえるかもしれないと、期待しましたが、
それは期待だけに終わりました。

確か次兄の作業だったと想いますが、私の古い長靴に二カ所もゴムの継ぎ当てがつきました。
どうやって継ぎ当てしたのか、私は覚えていません。
クラスの中には可愛らしい色の長靴を履いてる子もいました。

札幌は空襲にもあっておらず、貧富の差が大きい街だったように思います。
母がストーブで暖めてくれた小さな石を長靴の中に入れて、私は学校までの30分くらいを近くの友達と一緒に歩きました。
 

長靴がない時代

 投稿者:Yoshi  投稿日:2018年 5月 1日(火)07時42分1秒 d-117-74-46-100.ftth.katch.ne.jp
返信・引用 編集済
  みやはらさん、

長靴の配給があるのは御地の事情でしょうね。
私の方は滅多に雪は降らない地域ですが、雨の時には高下駄でした。
冬の雨の日に、鼻緒が切れて、あの時のことは生涯忘れません。

遺族会の配給で米軍の捕虜に支給されていた合羽がありました。
上着ですが小学生の私には丁度良いサイズで、傘を差さずに通学、
みんなに羨ましがられた記憶があります。

トラック用古チューブの長靴は、再利用品としての最高傑作だと思います。
 

ゴム長靴の件

 投稿者:みやはら  投稿日:2018年 4月30日(月)08時34分52秒 i121-119-32-9.s05.a006.ap.plala.or.jp
返信・引用
  こんにちは

ゴム長靴の件
不思議な話ですが、クラスに1足か2足割り当て配給が有りました。
その子は運よく抽選に当たり履けたのです。戦後の物不足時代です。

雪国でしたからゴム長は貴重品でした。
私は冬場は藁靴でした。しもやけになり痒くて困りました。
その子はそれしか履く物が無かったかも知れません。
決してお金持ちではありません。

 

お写真見て

 投稿者:Yoshi  投稿日:2018年 4月30日(月)06時13分59秒 d-117-74-46-100.ftth.katch.ne.jp
返信・引用
  みやはらさんのお写真拝見して長靴の方がいらっしゃいますね。
これはお金持ちの方?まず当地では長靴で登校する子はいませんでしたね。

履いてもトラックタイヤのチューブで加工した長靴でした。
チューブが黒ならいいですが、赤いチューブの赤い長靴は嫌でした。
後はどこも一緒の少年時代でした。

でも考えれば日本人は器用なんですね。

先生は軍服姿で、中には将校鞄をそのまま腰にして通ってみえました。
アルマーニの制服の生徒に見せたら何と言いますか?

当時の半纏(はんてん)がなつかしくてこの冬通販で買いました。
たしか袖が鼻を拭いてピカピカでした。
 

Re: こんにちは

 投稿者:ローラメール  投稿日:2018年 4月26日(木)14時41分27秒 93.255.accsnet.ne.jp
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

> 満州から帰った翌年昭和22年の春、小学2年の写真です。
> 女性の先生でした。服装をご覧ください。もんぺ姿でしょう。
> 生徒の足元をご覧ください。下駄、草履、素足様々でしょう。
>
> 私は小学校も中学校でも、どの先生からも良くして貰って
> 良い思い出でばかりです。
> 社会人になってからも覚えていて下って仕事でも助けて頂きました。

     ★★★★★

みやはらさん、
お返事ありがとうございました。

> 作家の三浦綾子さんは北海道で先生をされていて
> 今の今まで軍国教育をしていた教師が平然と全く反対の
> 事を同じ子等に教えるのに耐えらなくて教師を辞めたそうです。

そうでしたね。「氷点」で一躍有名作家になられた三浦綾子さんは、大好きな作家のひとりです。
なにしろ旭川出身の女性作家ですからね。
彼女は、長い闘病生活の中で、信仰を共にする三浦氏に出会えました。

写真懐かしく拝見しております。
2年C組だったのですね。
複式学級ではなく、この程度の児童数であれば、担任教師は授業やりやすかったと思いますよ。
一生懸命勉強に打ち込んでいたみやはら君の姿が眼に浮かぶようです。

確か、満洲では標準語しか知らなかったので、友達の話す東北弁が分かりにくかったのですよね。
北海道弁は、女子カーリング選手たちの「そだね!」ですっかり有名になりましたが、東北弁の影響をかなり受けています。

暮れかお正月頃に「くじら汁」を食べませんでしたか?
白と黒のクジラ脂身にワラビや蕗、大根、コンニャクなどが一緒に入っていて美味しかったなあ!

実家のお婆さまが東北出身の方で、母は東北の料理を習ったと聞いています。

引き揚げ中も苦労されたみやはらさんの母上は長生きされましたか?


そうそう、私も小学生1年の頃は石狩原野の田舎に住んでいましたので、夏は母が縫った絣のモンペに下駄はきでしたよ。
新しい洋服などは全く作ってもらえませんでした。
 

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